「30 kmまでは順調だったのに、急に脚が動かなくなった……」
「前半に貯金を作ったはずが、後半の大失速で借金生活に……」
マラソンランナーなら誰もが一度は経験する、悔しい「30 kmの壁」。 レース後、「練習不足だった」と反省する方は多いですが、実はその原因の多くは、スタート前の「目標ペース設定のミス」にあります。
ネット上の「予想タイム計算機」や「VDOT表」で弾き出された数値を見て、「このタイムなら行けるはず!」と信じ込んでいませんか?
その直感は、半分正解で、半分間違いです。なぜなら、多くの計算式は「スピードとスタミナのバランスが整ったランナー」が「最適な気象条件」で走ることを前提としているからです。
現実のレースでは、「当日の気温」「風」「あなたの脚質(スピード型かスタミナ型か)」「直近の練習量」といった無数の変数が絡み合います。これらを無視して机上の計算だけで突っ込めば、後半にガス欠を起こすのは必然です。
本番で最後まで粘り強く、笑顔でゴールするために必要なのは、固定された数字ではなく、あなたの身体の感覚と現場の状況を加味した「柔軟なペース戦略」です。
この記事では、計算機だけでは導き出せない「あなただけの適正レースペースの見つけ方」を徹底解説します。
【この記事はこんな方におすすめ】
- 後半失速に悩む方
- 「いつも30 km以降で歩いてしまう」という方。
- 目標設定に迷う方
- ネットの予想タイムと、自分の練習感覚にズレを感じている方。
- 他競技の経験者
- 水泳や自転車経験があり、心肺機能には自信があるが脚づくりに不安がある方。
- 初心者〜中級者
- 初フルマラソンからサブ4、サブ3.5を目指す層。
【この記事を読むと分かること】
- 「計算式」の落とし穴:
- なぜVDOT通りのタイムで走れないのか?その理由と対策が分かります。
- タイプ別・適正ペース診断:
- 「陸上経験者(スピード型)」や「持久系スポーツ経験者(心肺特化型)」など、タイプごとのペース配分のコツを解説。
- 実践的なペース決定プロセス:
- 「30 km走の余裕度」や「当日の気温」から導き出す、失敗しない目標設定術(松・竹・梅の3段階設定)が身につきます。
さあ、机上の空論は一旦置いて、あなたの実力を100
代表的なマラソンペース計算方法

「自分の実力なら、フルマラソンは何時間くらいで走れるのだろう?」
目標ペースを決める際、勘や願望だけに頼るのは危険です。まずは、スポーツ科学の世界で広く使われている「客観的なものさし(指標)」を知ることから始めましょう。
世界中のランナーやコーチが活用している代表的な2つの計算方法を紹介します。
ジャック・ダニエルズの「VDOT(走力レベル)」
ランニング指導の神様と称されるジャック・ダニエルズ博士が考案した「VDOT(O2)」は、現代のマラソン・トレーニングにおいて最も有名な指標の一つです。
VDOTとは何か?
生理学的な指標である「VO2max(最大酸素摂取量)」に、ランニングの経済性(ランニングエコノミー)を加味して、ランナーの「現在の走力」を数値化したものです。 この数値が高ければ高いほど、走力が高いことを示します。
どう活用するのか?
VDOTの最大のメリットは、「短い距離のベストタイムから、フルマラソンの予想タイムが分かる」ことです。 例えば、「5 kmを25分」で走れた場合、VDOT表(または計算機)に当てはめると、以下のような予測が立ちます。
- 5 km:25分00秒
- VDOT値:38
- フルマラソン予想:3時間58分42秒(ペース:5分40秒/km)
このように、フルマラソンを走ったことがなくても、現在の走力から「理論上のゴールタイム」を導き出すことができます。
リーゲルの公式(Riegel’s Formula)
多くのランニングウォッチや、ネット上の「マラソン予想タイム計算サイト」の裏側で動いているアルゴリズムの基礎となっているのが、ピーター・リーゲル(Peter Riegel)が提唱した公式です。
リーゲルの公式とは?
1977年に提唱された、持久系競技における記録予測のための数式です。
$$T2 = T1 \times (D2 / D1)^{1.06}$$
- $T1$: 基準とする距離のタイム
- $D1$: 基準とする距離
- $D2$: 予測したい距離
- $T2$: 予測タイム
この数式の肝は、指数である「1.06」という数字です。これは「距離が伸びるにつれて、どれくらいの割合でペースが落ちるか」を表す「持久係数(Fatigue Factor)」です。
どう活用するのか?
この公式を使えば、10 kmやハーフマラソンのタイムさえあれば、電卓一つでフルマラソンのタイムを簡易的に試算できます。
「距離が2倍になれば、タイムは単なる2倍ではなく、少し(1.06乗分)遅くなる」という生理学的な現実を数式化したものです。
便利な「ものさし」だが、あくまで「統計値」
VDOTやリーゲルの公式は非常に強力なツールです。これらを使うことで、以下のようなメリットがあります。
- 無謀すぎる目標(実力とかけ離れたペース)を立てずに済む。
- 現在の走力が客観的に数値化される。
しかし、ここで一つ、非常に重要な注意点があります。
これらの計算式で弾き出される数値は、あくまで「統計的な予測値」であり、「特定の前提条件を満たしたランナー」にのみ当てはまる理想値だということです。
もしあなたが、「計算機ではサブ4行けるはずなのに、30 km以降でいつも失速してしまう」と悩んでいるなら、それは計算機が壊れているのではなく、あなた自身の特性(タイプ)や練習内容が、計算式の「前提」とズレている可能性が高いのです。
次の章では、なぜ多くの市民ランナーが「計算機通りに走れないのか」、その根本的な原因とメカニズムについて解説します。
なぜ予想タイム通りに走れないのか?

「VDOTの表ではサブ4行けるはずなのに、30 km以降でいつも失速してしまう……」
「5 kmのタイムは速いのに、フルマラソンになると計算通りに走れない」
もしあなたがそう感じているなら、それは計算機が間違っているわけでも、あなたの努力が足りないわけでもありません。 その原因は、計算式が前提としている「ある数値」と、あなたの現状の「脚づくり」のズレにあります。
「5 kmタイム × 〇倍」の罠
前章で紹介した「リーゲルの公式($T2 = T1 \times (D2 / D1)^{1.06}$)」を思い出してください。この数式の肝は、距離が伸びた時のタイムの落ち幅を表す指数「1.06」です。
実は、この「1.06」という数値は、「十分なトレーニングを積んだ競技者レベルのランナーの平均値」から導き出されたものです。
エリートの常識は、市民ランナーの非常識
エリートランナーや記録を狙うシリアスランナーは、月間数百キロの距離を踏み込み、スピードだけでなく強靭なスタミナ(脚の耐久性)を持っています。彼らにとって、距離が倍になってもペースの低下は最小限(1.06乗)で済みます。
そして、多くの計算サイトやアプリはこの「1.06」をデフォルト設定として採用しています。ここに、「計算上はゴールできるはずなのに、現実には走り切れない」という悲劇の根本原因があります。
市民ランナーの現実的な「持久係数」は低い
では、一般的な市民ランナーの実態はどうでしょうか?
統計的なデータを見ると、月間走行距離が100〜200 km程度の市民ランナーの場合、この持久係数は「1.06」ではなく、「1.15〜1.20」程度になる傾向があります。
係数がわずか「0.1」違うだけで、予測タイムには劇的な差が生まれます。
【実例:5 kmを25分で走れるランナーの場合】
| 持久係数 | ランナーのタイプ | フルマラソン予測タイム | 1kmあたりのペース |
|---|---|---|---|
| 1.06 | エリート・十分な練習量 | 3時間58分(サブ4達成) | 5分38秒 /km |
| 1.15 | 一般的な市民ランナー | 4時間45分 | 6分45秒 /km |
なんと、同じスピード能力を持っていても、スタミナの差(係数の差)で45分以上もタイムが変わってしまうのです。 計算機が弾き出した「3時間58分」を信じてキロ5分40秒で走り出せば、後半に大失速するのは火を見るより明らかです。
現実的な目安は「計算値 + 10〜15秒」
では、私たちはどうペースを設定すればよいのでしょうか?
もしあなたが、「スピード練習(インターバル走など)は好きだが、30 km走などの距離走はあまりできていない」あるいは「月間走行距離が200 km未満」であるなら、以下の補正ルールを適用してください。
【市民ランナーのためのペース補正ルール】
VDOTや計算サイトで出た適正ペースから、 キロ10〜15秒遅いペース を目標に設定する。
例:VDOTで「キロ5分40秒」と出た場合
- 補正後:キロ5分50秒〜5分55秒で入る。
「えっ、そんなに落とすの?」と思うかもしれません。しかし、フルマラソンにおいて「前半の貯金」は存在しません。前半を余裕のあるペースで入り、30 km過ぎても脚が残っていれば、そこからペースを上げて(ネガティブスプリットで)計算通りのタイムに近づければ良いのです。
まずは「計算機はエリート仕様である」と割り切り、自分の練習量に見合った「謙虚なペース」でスタートラインに立つことが、後半の失速を防ぐ第一歩です。
【タイプ別診断】あなたの「失速リスク」と対策を知ろう

「計算機で出したペースを守ったのに、なぜか失速した」
「友人は自分より持ちタイムが遅いのに、フルマラソンでは負けてしまった」
マラソンでは、単純な走力(VO2max)だけでなく、あなたの「スポーツ歴」や「筋肉の質」によって、レース後半の粘り強さが大きく変わります。 自分のタイプを知り、適切な「補正」をかけることで、失速リスクを大幅に減らすことができます。
タイプA:陸上短・中距離経験者(スピード型)
学生時代に陸上部で短距離や800〜1,500 mを走っていた方、あるいは大人になってからインターバル走などのスピード練習を好んで行っている方が当てはまります。
【特徴】「序盤のペース」が遅すぎて我慢できない
このタイプの最大の特徴は、「スピードの余裕」がありすぎることです。 フルマラソンのペース(例えばキロ5〜6分)は、あなたにとって「ジョギング」以下の強度に感じられるでしょう。「こんなに遅くていいの?」と感じ、つい無意識にペースを上げてしまいがちです。
【失速リスク】 糖質の浪費による「30 kmの壁」直撃
スピード型ランナーは「速筋繊維」の比率が高く、エネルギー源として「糖質(グリコーゲン)」を使いやすい体質です。
序盤に「楽だ」と感じて少しでもペースを上げると、脂肪ではなく貴重な糖質を大量に消費してしまい、30 km地点でガス欠(ハンガーノック)を起こすリスクが極めて高いのです。
【対策】 持ちタイムからの計算値より、意図的に「遅く」入る
- 鉄則
「遅すぎる」と感じるペースこそが正解です。 - 設定
VDOT等の計算値から、キロ10〜20秒遅いペースで入りましょう。 - 戦略
前半を抑えに抑えて糖質を温存し、30 km以降でごぼう抜きする「ネガティブスプリット」が唯一の勝機です。
タイプB:水泳・自転車・登山経験者(心肺特化型)
トライアスロン、ロードバイク、水泳などの持久系スポーツ経験者や、登山愛好家が当てはまります。
【特徴】心肺機能は最強だが、「着地衝撃」に弱い
このタイプの強みは、圧倒的な「心肺機能(エンジンの強さ)」です。長時間運動しても息が上がらず、高い心拍数を維持することにも慣れています。 しかし、ランニングは他の持久系スポーツと決定的に違う点があります。それは「着地衝撃(エキセントリック収縮)」があることです。
【失速リスク】息は楽なのに、突然「脚が動かなくなる」
水泳や自転車には「地面に着地する衝撃」がありません。そのため、心肺機能に比べて「脚の筋耐久力(衝撃耐性)」が未発達なケースが多いです。 「息が全然苦しくないから」と調子に乗ってペースを上げると、筋肉へのダメージが蓄積し、後半突然脚が攣ったり、膝に激痛が走って動けなくなるリスクがあります。
【対策】心拍数ではなく「脚の疲労感」をセンサーにする
- 鉄則
心肺の余裕に騙されてはいけません。 - 設定
計算値よりも、「脚への衝撃がマイルドに感じるペース」を優先してください。 - 戦略
ピッチ(歩数)を多めにして着地衝撃を逃がす走法を意識し、前半は脚を「温存」することに全集中しましょう。
タイプC:完走狙いの初心者・スタミナ型
今回が初フルマラソン、あるいは過去に完走経験が少ない方が当てはまります。
【特徴】42 kmという「未知の領域」
自分が42 kmの衝撃に耐えられるかどうかのデータがまだありません。この状態で「タイム」を目標にするのは、地図を持たずに航海に出るようなものです。
【失速リスク】痛みによる「強制終了」
初心者にとって最大の敵は、心肺機能でもエネルギーでもなく、「痛み」です。 無理なペース設定はフォームの崩れを招き、膝や股関節、足裏の痛みを誘発します。一度痛みが出ると、かばって走ることで他の箇所も痛くなり、最終的には歩くことしかできなくなります。
【対策】タイム計算は一旦忘れ、「ニコニコペース」を基準にする
- 鉄則
時計(GPSウォッチ)のペース表示を見過ぎないこと。 - 設定
「隣の人と笑顔で会話ができる強度(LSD)」が最強のペースです。 - 戦略
「歩かずにゴールできれば100点」と割り切りましょう。周りのランナーに抜かれても気にせず、自分のリズム(呼吸と着地)だけに集中します。完走という実績を作ってから、次のレースでタイムを狙えば良いのです。
あなたのタイプは見つかりましたか? 次のパートでは、これらを踏まえた上で、レース直前の練習(30 km走)を使って最終的なペースを決定する「実践的プロセス」について解説します。
本番直前!「30 km走の余裕度」で決める現実的ペース

自分のタイプ(スピード型かスタミナ型か)を把握したら、いよいよ最終的なペース決定プロセスに入ります。 ここで最も信頼できるデータは、計算機が弾き出した数字ではなく、あなた自身の「身体の声」です。
【重要】初心者は無理に長距離の「ペース走」をしなくていい
具体的な判定方法に入る前に、初心者の方へ重要な注意点があります。 もしあなたが「まだ30 kmを続けて走ったことがない」あるいは「完走が目標」であるなら、ペース設定のための30 km走は実施しなくて構いません。
30 km走は、マラソントレーニングの中でも最大級の負荷がかかる練習です。脚づくりができていない段階で無理に行うと、膝や足首を故障するリスクが非常に高くなります。
初心者のための「脚作り」アプローチ
まずはペースやタイムを気にせず、以下の方法で「長い距離」に身体を慣らすことから始めましょう。
- LSD(Long Slow Distance)
- 会話ができるくらいゆっくりとしたペースで、長時間身体を動かし続ける練習です。
- マラニック(マラソン+ピクニック)
- 途中でコンビニ休憩を入れたり、トイレに寄ったり、景色が良いところで立ち止まってもOKです。
- 「休まず走り切る」ことよりも、「30 kmという距離を自分の足で移動しきった」という自信と、長時間動き続けるための筋耐久力を養うことを優先してください。
ペース設定のためのシビアな30 km走は、20 km以上の距離走を何度かこなし、「30 kmを休まずに走り切れる脚」ができてから挑戦するステップです。
実施時期は「3〜4週間前」が鉄則
記録を狙う中級者以上の方が30 km走を行う場合、そのタイミングは非常に重要です。
- 推奨時期:本番の 3〜4週間前
- NG時期:本番の 2週間前〜直前
レース直前(3週間以内)に、レースペースやそれ以上の強度で30 km走を行うのは危険です。筋肉の微細損傷や疲労が本番までに抜けきらず、スタートラインに立った時点で「足が重い」状態になってしまうリスクがあるからです。
直前は「テーパリング(調整期)」に入り、練習量を落として疲労を抜くことに専念しましょう。
計算機より「身体の声」を信じる
レース3〜4週間前に、「本番で予定しているペース」で30km走(またはハーフマラソン)を実施してみましょう。 この時の「走り終わった直後の感覚(余裕度)」こそが、あなたの適正ペースを決める最終判断材料になります。
「余裕度」による判定基準
30km地点での身体の声を、以下の基準でジャッジしてください。
【NG】「30 kmでいっぱいいっぱい」
- 感覚
- 「やっと終わった…」
- 「もうこれ以上走りたくない」
- 「足が棒のようだ」
- 診断
- そのペースで42.195 kmを走り切ることは不可能です。
- 対策
- マラソンは「30 kmからが本番」と言われます。ここで余裕がゼロなら、残り12.195 kmは地獄を見ることになります。勇気を持って、目標ペースをキロ10秒〜15秒落としてください。
【注意】「あと5 kmくらいなら頑張れそう」
- 感覚
- 「きついけど、気力でなんとか35 kmまでは行けるかな?」
- 診断
- 黄色信号です。 アドレナリンが出ている本番なら30 kmの壁は越えられるかもしれませんが、ラスト5〜7 kmで大失速する可能性が高いです。
- 対策
- ペースをキロ5秒落とすか、当日のコンディションが完璧(無風・低温)な場合のみチャレンジする、といった慎重な判断が必要です。
【OK】「このままもう1周(あと10〜20 km)行けそう」
- 感覚
- 「まだ足が残っている」
- 「呼吸も乱れていない」
- 「給水もスムーズに摂れた」
- 診断
- それが正解のレースペースです。
- 対策
- この感覚が得られれば、自信を持ってそのペースでスタートラインに立ちましょう。この「余裕」こそが、35 km以降の粘りと、ラストスパートの源泉になります。
計算式はあくまで「地図」に過ぎません。あなたの「感覚」こそが、最も信頼できる羅針盤なのです。
次のパートでは、これらのテスト結果を踏まえ、当日のあらゆる状況に対応するための「松・竹・梅(3段階)目標設定術」について解説します。
目標は「点」ではなく「レンジ(幅)」で持つ:松・竹・梅の法則
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レースペースを決める際、「目標タイムは3時間59分!」と1点だけに絞っていませんか? 実は、この「1点狙い」こそが、レース当日の自滅を招く最大の要因です。
マラソンは屋外競技であり、当日の気温、風、湿度、そして自身の体調など、自分ではコントロールできない要素が無数にあります。それらを無視して「決めた数字」に固執することは、非常にリスクが高いのです。
「1点狙い」は自滅の元
例えば、「絶対にサブ4(キロ5分40秒)」と決めてスタートしたとします。 しかし、当日は予想外の暑さ(気温20℃)だった場合、どうなるでしょうか?
- 身体の反応
- 暑さで心拍数が上がり、キロ5分40秒が普段よりきつく感じる。
- 思考
- 「やばい、設定ペースを守らなきゃ目標に届かない!」と焦る。
- 行動
- 無理をしてペースを維持しようとする。
- 結果
- 20 km過ぎで脱水や熱中症になり、大失速。サブ4はおろか、完走すら危うくなる。
このように、状況が悪化しても目標を下方修正できない「硬直した計画」は、レース中のパニックを引き起こし、結果として最悪の結末(リタイアや大撃沈)を招きます。
3段階の目標設定(松・竹・梅)
どんな状況でも冷静さを保ち、その日のベストパフォーマンスを発揮するために、目標は「点」ではなく「幅(レンジ)」を持たせて設定しましょう。 おすすめは、「松・竹・梅」の3段階設定です。
【松】 100点満点の目標(理想)
- 定義
- 気象条件が最高で、体調も万全、レース展開も完璧だった場合に達成したい「挑戦的なタイム」。
- 役割
- モチベーションを高めるための目標。
- 例(サブ4狙いの場合)
- 3時間50分 〜 55分
【竹】 80点の目標(現実)
- 定義
- 大きなトラブルがなく、今の実力を普通に出せれば達成できる「現実的なタイム」。練習での30 km走の結果に基づいたペースはここに設定します。
- 役割
- レースプランの軸となる目標。
- 例(サブ4狙いの場合)
- 3時間59分(サブ4達成)
【梅】 60点の目標(死守ライン)
- 定義
- 天候が悪化したり、体調が優れなかったりしても、「ここだけは絶対に死守する」という最低限の目標。
- 役割
- 心のセーフティーネット。最悪の状況でも「梅ならいける」と気持ちを切らさないために重要。
- 例(サブ4狙いの場合)
- 4時間15分(自己ベスト更新)、または「歩かずに完走」
「幅」を持つことのメリット
この「松・竹・梅」を設定しておくことで、レース中にトラブルが起きてもパニックにならず、冷静に「目標の切り替え」が可能になります。
- スタート直後
- 「今日は体が軽い!これなら【松】が狙えるかも」と攻める。
- 中盤で向かい風
- 「風が強いから【松】は無理だ。冷静に【竹】狙いに切り替えてペースを落とそう」と判断。
- 終盤で足が攣る
- 「サブ4(竹)は厳しくなったけど、自己ベスト(梅)は絶対更新するぞ!」とモチベーションを維持して粘る。
最も避けるべきは、「サブ4が無理になった瞬間、やる気を失って歩いてしまう」ことです。 目標に幅を持たせることは、どんな展開になっても「フィニッシュまで頑張る理由」を残し続けるための、最強のメンタル戦略なのです。
次の最終パートでは、この「松・竹・梅」のどれを選択するかを決定する、当日のコンディション(気温・体調)による最終ジャッジの方法について解説します。
当日のコンディションによる「柔軟な目標設定」

ペース設定の旅も、これがいよいよ最後です。 「計算機」で目安を知り、「タイプ」で補正し、「30 km走」で確信を得て、「松竹梅」のプランを用意しました。
しかし、これらはあくまで「事前の計画」に過ぎません。 マラソンにおいて最も重要な意思決定は、レース当日の朝、スタートラインに立った瞬間に行われます。
無理をしない勇気を持つ
スタート直前、あなたの周りはやる気に満ちたランナーで溢れ、会場のアナウンスが気分を高揚させます。アドレナリンが出まくっているこの状態で、「今日は調子が悪そうだから【梅】プラン(ペースダウン)で行こう」と決断するのは、走ること以上に勇気がいる行為です。
しかし、ここで「無理をしない勇気」を持てた人だけが、後半に笑うことができます。 以下の「3つの変動要素」をチェックし、冷静にプランを選択してください。
スタートラインで確認すべき「3つの変動要素」
① 気温と風:自然には逆らえない
最もタイムに直結する外部要因です。マラソンの記録が出やすい適温は「6〜10℃」と言われています。これより暑ければ、無条件でペースを落とす必要があります。
- 15℃以上
- 暑さを感じ始めます。
- 設定ペースよりキロ5秒落としましょう(【竹】→【梅】へ変更を検討)。
- 20℃以上
- 市民ランナーにとっては危険水域です。
- 記録狙いは捨て、「完走(梅)」に切り替えて給水を最優先にしてください。
- 強風
- 向かい風の中で設定タイムを守ろうとすると、体力を過剰に消耗します。
- 「タイム」ではなく「努力感(きつさ)」を一定に保つことを優先しましょう。
② テーパリングの感触:疲労は抜けたか?
レース前1週間(テーパリング期間)の過ごし方がうまくいったかを振り返ります。
- 体が軽い
- 「走りたくてうずうずする」感覚があれば、【松】や【竹】を狙うチャンスです。
- 体が重い
- 調整ミスか、疲労が残っています。序盤は【梅】のペースで入り、身体が動いてくるのを待ちましょう。焦ってペースを上げると、後半に鉛のように重くなります。
③ 当日の体調:内臓と睡眠
- 睡眠不足
- 1日くらいならアドレナリンでカバーできますが、慢性的なら注意が必要です。
- お腹の調子
- スタート前にトイレに行けたか、消化不良感はないか。内臓の不調は、レース後半のエネルギー補給(ジェルの摂取)に悪影響を及ぼし、ガス欠の原因になります。不安があるならペースを抑えめに。
まとめ:後半失速しない!マラソンレースペースの決め方と目標設定の極意

本記事では、計算機や一般論に頼りすぎない「現場で使えるレースペースの決め方」について解説してきました。 最後に、フルマラソンで後半失速せず、笑顔でフィニッシュするための「5つの鉄則」を振り返ります。
【鉄則1】 計算機を過信しない(エリート仕様の罠)
VDOTや予想タイム計算機は「スタミナ十分なランナー」のデータです。市民ランナーは、計算値より「キロ10〜15秒」遅いペースが現実的な適正値であると心得ましょう。
【鉄則2】 自分の「タイプ」で補正する
- スピード型
- 序盤の「楽」は幻。計算値よりさらに抑えて入る。
- 持久型
- 心拍数より「脚の疲労」をセンサーにする。
- 初心者
- タイムは無視。「ニコニコペース(LSD)」で完走実績を作る。
【鉄則3】 机上より「実走」を信じる
レース3〜4週間前の「30 km走の余裕度」が全ての答えです。「いっぱいいっぱい」なら下方修正、「もう1周いける」なら自信を持って採用します。
【鉄則4】 目標は「点」ではなく「幅(松竹梅)」で持つ
「サブ4絶対!」という1点張りは自滅の元です。
- 松(100点):理想のタイム
- 竹(80点):現実的なタイム
- 梅(60点):死守するライン(完走など)
この幅を持つことで、どんな展開でも心が折れなくなります。
【鉄則5】 最終決定は「スタートライン」で行う
当日の「気温(15℃以上は危険)」「風」「体調」を見て、松・竹・梅のどのカードを切るか、スタート直前に冷静に判断する勇気を持ってください。
適正なレースペースとは、誰かが決めてくれる「正解の数字」ではありません。 あなた自身が自分の身体と対話し、練習で試し、環境を見極めて決定した「あなただけの戦略」のことです。
「このペースなら、どんなことがあっても最後まで走り切れる」
そう確信を持ってスタートラインを跨いだ時、あなたのマラソンは半分成功したようなものです。 後半の苦しい場面でも、その確信(余裕)があなたの背中を押し、自己ベスト更新や笑顔の完走へと導いてくれるはずです。
さあ、準備は整いました。あなただけの「最適解」を持って、42.195 kmの旅を楽しんできてください!
引用・参考文献
- Daniels J. 2013. Daniels’ Running Formula. 3rd ed. Human Kinetics.
- Riegel PS. 1981. Athletic records and human endurance. American Scientist 69(3): 285-290.